匂いを見分け、忘れない。ショウジョウバエから着想を得たAI

ショウジョウバエの嗅覚系を模した新しい匂い識別アルゴリズム。大気汚染の監視や爆発物の検知に向けた省エネルギー技術への応用が期待されます。

動物界では、エネルギーの節約が生き残りを左右します。そのため、私たちの脳は、情報を保存・処理する際にエネルギーや資源を極めて効率よく使えるよう進化してきました。こうした高効率な情報処理の仕組みを再現しようと、計算科学の研究者たちは1980年代から脳の構造や機能を模倣する研究に取り組んできました。しかし、エネルギーが限られ、学習データが徐々に蓄積されるような現実的な環境において、少ないメモリで効率よく動作する実用的な手法の実現には、まだ至っていません。 

沖縄科学技術大学院大学(OIST)の研究チームが開発した、脳に着想を得た新しいアルゴリズムが、現実的な条件でも実用化できる可能性を示しました。このアルゴリズムは嗅覚による匂いの識別システムに基づいており、実験的な匂いデータセットを用いて学習・検証が行われました。その結果、特に学習データが限られた状況において、匂いを高い精度で分類できることが示されました。この研究成果は学術誌『Neuromorphic Computing & Engineering』に掲載されました。 

ショウジョウバエは侮れない 

研究チームが新しいアルゴリズムの着想源としたのは、小さなショウジョウバエです。ケシの実よりも小さなこの昆虫の脳には約14万個のニューロンがあり、神経科学研究で広く利用されています。 

「ショウジョウバエの脳は、最も詳しく解明されている脳の一つです。脳全体を研究対象にできるほど単純でありながら、複雑な情報処理を実現しています」と、本研究の共同著者であるOIST生物非線形動態データサイエンス研究ユニットのヤン・シェン博士は説明します。「特に興味深いのが、その嗅覚系です。このシステムでは『スパースコーディング』と呼ばれる計算手法が用いられており、学習を行わなくても異なる信号同士の重なりを減らすことができます。そのため、より少ないエネルギーで匂いを効率的に表現できるのです。」 

研究チームが開発したアルゴリズム「Spi-Fly」では、ショウジョウバエの嗅覚系を3層のニューラルネットワークとしてモデル化しました。入力された匂い信号は1000個のニューロンからなる中間層へランダムかつ疎に投影され、それぞれの匂いに対してごく少数のニューロンだけが活性化します。活性化したニューロン群は匂いごとに固有のバーコードとして機能し、連合学習によって出力ニューロンがそれを認識します。 

二つのアーキテクチャの模式図。左はショウジョウバエの嗅覚系、右はそれを簡略化したSpi-Flyアルゴリズムの構成を示している。青色と赤色の円はニューロンを表し、それらを結ぶ矢印は経路や接続を示している。
左はショウジョウバエの嗅覚(匂いの分類)に関わる脳回路を示した模式図で、円は異なる種類のニューロン、矢印は活性化する経路や接続を表している。右はショウジョウバエに着想を得たアルゴリズム「Spi-Fly」のアーキテクチャ。

ショウジョウバエでは、嗅覚受容ニューロン(ORN)が環境中の匂いを感知し、その情報を投射ニューロン(PN)へ伝える。この信号は局所ニューロン(LN)によって調整された後、約2000個のケニオン細胞(KC)へ送られる。PNとKCの間には多数のランダムな接続があり、匂いの情報はより高次元な表現へと拡張される。さらに、異なる信号同士が混ざらないよう、別のニューロン(APL)がKCの95%を抑制することで、それぞれの匂いに対してごく少数のKCだけが活性化する。活性化したKCがバーコードとなり、出力ニューロン(ここではMBONと表示)へ信号を送る。このように匂い情報を一度大きく拡張した後に少数の神経活動へ絞り込むことによって形成される固有の経路により、それぞれの匂いを識別できるようになる。さらに、新しい匂いに遭遇した場合には、KCとMBONの結合部にある学習アルゴリズムによって、迅速かつ継続的に学習できる仕組みとなっている。 

Spi-Flyは基本的にこの仕組みを小型化したものであり、同様に情報を一旦拡張し、その後絞り込むという仕組みで、より少ない層数で構成されている。中間層で活性化したニューロンはそれぞれの匂いに固有のバーコードとして機能し、連合学習のルールを用いて出力ニューロンがそのパターンを認識する。  
© Max et al., Neuromorphic Computing and Engineering, 2026. DOI: 10.1088/2634-4386/ae9177
左はショウジョウバエの嗅覚(匂いの分類)に関わる脳回路を示した模式図で、円は異なる種類のニューロン、矢印は活性化する経路や接続を表している。右はショウジョウバエに着想を得たアルゴリズム「Spi-Fly」のアーキテクチャ。

ショウジョウバエでは、嗅覚受容ニューロン(ORN)が環境中の匂いを感知し、その情報を投射ニューロン(PN)へ伝える。この信号は局所ニューロン(LN)によって調整された後、約2000個のケニオン細胞(KC)へ送られる。PNとKCの間には多数のランダムな接続があり、匂いの情報はより高次元な表現へと拡張される。さらに、異なる信号同士が混ざらないよう、別のニューロン(APL)がKCの95%を抑制することで、それぞれの匂いに対してごく少数のKCだけが活性化する。活性化したKCがバーコードとなり、出力ニューロン(ここではMBONと表示)へ信号を送る。このように匂い情報を一度大きく拡張した後に少数の神経活動へ絞り込むことによって形成される固有の経路により、それぞれの匂いを識別できるようになる。さらに、新しい匂いに遭遇した場合には、KCとMBONの結合部にある学習アルゴリズムによって、迅速かつ継続的に学習できる仕組みとなっている。 

Spi-Flyは基本的にこの仕組みを小型化したものであり、同様に情報を一旦拡張し、その後絞り込むという仕組みで、より少ない層数で構成されている。中間層で活性化したニューロンはそれぞれの匂いに固有のバーコードとして機能し、連合学習のルールを用いて出力ニューロンがそのパターンを認識する。  

このシステムを検証するため、研究チームは2種類の匂いデータベースを用い、さまざまな分類アルゴリズムと性能を比較しました。 

「Spi-Flyは、少数のサンプルだけで匂いを識別できる『Few-shot learning(少数事例学習)』において最も優れた性能を示しました」と、本研究の共著者であるOIST神経計算ユニットのKevin Max博士は説明します。「また、『Continual learning(継続学習)』にも優れており、過去に学習した匂いの識別能力を失うことなく、新しい匂いを学習できました。これは、新しい情報を学ぶ際に過去の学習内容を忘れてしまう『Catastrophic forgetting(破滅的忘却)』と呼ばれる従来の学習手法における大きな課題を克服する可能性を示すものです。」 

もちろん、Spi-Flyにも限界があります。現時点では、全体的な性能は、最良の従来型機械学習手法と比べると改善の余地があります。また、現実の環境で頻繁に見られる複数の匂いが混在する状況でどの程度の性能を発揮できるのかについても、さらなる検証が必要です。しかし、Spi-Flyは脳に着想を得たコンピューティングの実現に向けた有望な道筋を示しています。 

人工の鼻を作る 

「爆発物の検知、アレルゲン濃度の評価、食品の安全性の確保、薬物の識別など、匂いの識別には非常に幅広い応用があります」とMax博士は説明します。「また理論上、Spi-Flyは匂いだけでなく、あらゆる識別問題に応用できる可能性があります。そのため、このような脳に着想を得た、ハードウェア互換性のあるアルゴリズムの開発は、幅広い分野への応用につながる可能性があります。」 

このアルゴリズムは匂いの識別を目的として設計されていますが、そのためにはまず匂いを検出するセンサーが必要です。Max博士とアイントホーフェン工科大学、キール大学の共同研究者らは現在、匂い検知用ハードウェアの開発を進めており、将来的にSpi-Flyを統合することを計画しています。最終的な目標は、幅広い実用用途に対応できる人工の鼻を作り出すことです。 

緑、青、金色で構成されたコンピューティングチップの画像。
Max博士とアイントホーフェン工科大学、キール大学の共同研究者らが開発したチップ。研究チームは以前の論文で、匂い検知を実現するためのハードウェアとして、このチップを報告している。Spi-Flyは、このようなニューロモーフィックハードウェアと完全な互換性を持つよう設計されている。
© Neuromorphic Edge Computing Systems Lab at TU Eindhoven

報道関係のお問い合わせ