2020-03-04

シリコンバレーと沖縄の架け橋

OIST理事会は、ノーベル賞受賞者を含む世界的に有名な科学者とビジネスリーダーで構成されており、OISTの学園運営を監督しています。2020年初頭、ユニークで多彩な経歴を持ったジェームス比嘉氏が理事に着任しました。

比嘉氏は米国で生まれ、米国と沖縄の間を子供の頃何度も行き来し、その後スタンフォード大学で学士号を取得しました。フリーランスの写真家として数年間働いた後、アップルに入社、シリコンバレーの世界にどっぷり浸かることとなりました。

アップルでスティーブ・ジョブスの直属の部下となった比嘉氏は、テクノロジーと消費財産業の変革に関わりました。 元々マッキントッシュのチームメンバーでもあった比嘉氏は、iTunesの交渉と立ち上げの役割を果たし、それが音楽業界を永遠に変えることになったのです。 彼は現在、シリコンバレーで多数のベンチャーファンドとビジネスを行い、スタートアップ企業の指導者、コーチ、役員として、また初期段階の企業への個人投資家として活躍しています。

ジェームス比嘉氏近影

「自分のキャリアがこのようになるとは計画外でした。自分の情熱に従うことは大事です。写真のおかげで学校に通うことができ、また写真が大好きだったので、その後フリーランスのフォトグラファーになりました。写真という創造的な分野にいたおかげで、アップルに引き寄せられることとなったのです。自分のキャリアをきちんと計画できる人などいません。5〜10年後に普及する仕事は、おそらく今日は存在していません。私たちができることは、自分の情熱に従うことだけなのです。」と、比嘉氏は語ります。

比嘉氏は今もシリコンバレーの仕事に関わっていますが、慈善事業への大胆な新しいアプローチと世界への影響力で知られる米国オークランドの非営利コミュニティ財団、フィランソロピック・ベンチャー財団のエグゼクティブディレクターとして、慈善事業の世界に参入しました。 比嘉氏は自身の慈善活動の経験を、OISTの理事会に持ち込みたいと考えています。

「科学と慈善活動は別物ではありません。私はその視点を理事会にご提供したいと考えています。 OISTで行われている研究の一部であろうと、スピンアウトされている企業の一部であろうと、より広い学問の世界の一部であろうと、ローカルにもグローバルにも、私たちがコミュニティのために何ができるかと、あらゆることにおいて考える必要があるのです。」

「私の両親は沖縄戦を生き延び、米国に渡り、その後沖縄に戻りました。自然な本能に従っていれば、敵を憎み、軽蔑していたと思いますが、私たちの家には、フルブライト奨学金の学者、米国の交換留学生、米軍基地の人々がいつも来ていました。両親が憎しみと怒り対象のはずだったものを愛と受容に変えるのを見てきました。私は世界で何ができるかを考えるという点で、両親から大きな影響を受けたと思います。」と、比嘉氏は振り返ります。

さらに比嘉氏によれば、自身と沖縄とのつながりは、よりも深いものに根差していると言います。歴史的に沖縄の人々は、世界で最初の「知識労働者」であったと比嘉氏は説明します。「沖縄の小さな島々は、人々が知識という純粋なパワーを獲得し駆使してきたことによって、周辺国の中で生き延びてきたという概念があり、それが私にとっては大きなインスピレーションと自信の源泉となっております。琉球王国時代を振り返って考えると、琉球の人々は、中国の宮廷に対する深い知識と言語を話す能力のおかげで存在したのです。そうして琉球王国は中国との貿易を発展させることができました。沖縄は常に外向きで、琉球王国の経済全体が実は情報と知識に基づいていたのです。」

ハイテク業界、非営利団体、大学の理事のいずれであっても、比嘉氏は、世界が今必要としているのは、急進的なコラボレーションの考え方を受け入れることだと強調します。「私たちには、多様なスキルセットと認知能力が必要です。アップルにいた頃、テクノロジーだけでは十分ではないという考えで、自分たちのことをテック企業とはみなしていませんでした。 テクノロジーだけではなく、私たちは世界に美しいものをもたらさなければなりません。その意味でも 認知の多様性は、様々な経験、背景、アイデアとともに、イノベーションと創造性を促進してくれるでしょう。」と、比嘉氏は語っています。

 

(ディッキー・ルシー)

広報や取材に関して:media@oist.jp