2013-01-23

新研究ユニットの紹介:魔法から量子機械へ

 言語の中には他の言語に訳して言い換えるのが難しいものがありますが、とりわけ難しいのが数学言語でしょう。その中でも桁違いに難しい数学の派生言語と言えるのが、量子物理学に使われる複雑な数式です。

 「量子理論で追及するのは、生身の人間では体験できない低い温度、微細なスケールで起こっている現象を説明することです。」と語るのは、OIST量子システム研究ユニットを率いるトーマス・ブッシュ准教授です。「自分で体験していないものを表す言葉はありませんから、私たちの研究を言語を使って正確に表現することは難しいのです。」と言います。

 この言語の壁があるために、量子物理学者は、研究成果を生物学者ほど的確に言語で説明できないのですが、それでも彼らは挑戦をやめません。量子理論は、我々の世界に対する理解の仕方を根本から変え、革命的な技術につながる可能性を秘めているからです。

 量子スケールで起こる現象で、最も重要でありながら最も奇怪な二つの現象が、波動と粒子の二重性と重ね合わせです。この二つの概念を見事に実演したのが、1800年代初めにトーマス・ヤングが光を使って行った二重スリット実験と、物質(マター) を使ってこれを再構成した1960年代のクラウス・イェンソンの実験でした。スクリーンの前に2本のスリットを置き、そこに向けて電子を発射する実験で、イェンソンと彼に続く物理学者らは、物質が波動の性質を示すときもあれば、粒子の性質を示すときもあることを明らかにしました。研究者らが実験の途中で系を測定したところ、各電子が粒子として一方のスリットを通過していたのですが、実験の最後に測定したところ、各電子が波動として両方のスリットを通過していたのです。

 物質の量子状態が測定によってなぜ崩壊するのでしょうか。実は、今も物理学者たちはこの疑問に答えようとしています。「タイヤの空気圧を測るときにタイヤの空気が減ってしまうのと同じように、測定によってある程度、この系から量子特性が失われてしまうのです。」とブッシュ准教授と説明した上で、「この問題に挑戦する時のもう一つの側面として、『粒子』とか『波動』という言葉では量子状態を適切に説明できないという事実を認めざるをえないのです。」と語ります。重ね合わせの概念、すなわち形のある物質が同時に二つの場所にあることを言語を使って説明するのは難しいのですが、方程式を使うと簡単に表すことができます。ただし、「こうした現象は単なる数学的概念ではなく、現実の世界で起こっていることなのです。」と、同准教授は説明します。

 実は状況はさらに複雑で、1個の電子が90%の確率で左のスリット、10%の確率で右のスリットを通過することもあれば、67%の確率で左、33%の確率で右ということも起こります。ブッシュ准教授によると、「こうした重ね合わせがすべて起こり得るし、組み合わせの数は実験が可能な限り無限」だと言います。

 量子システム研究ユニットの主な目標は、重ね合わせのような、今日の実験物理学が再現できるものに近い量子現象を、理論的に解き明かすことです。「量子機械の法則は、今あるものとは根本的に異なる工学技術や操作技術を現実のものにします。」とブッシュ准教授は語ります。たとえば、現在のコンピュータは、0か1かの二値論理(すなわちオンかオフ、右か左)によるビットで情報を処理していますが、量子コンピュータなら、重ね合わせ状態にある電子からほぼ無限の可能性を引き出すことができます。量子コンピュータのビットは、オン・オフにも、同時にその両方(たとえば、90%はオンで10%はオフ)にもなりえます。ビットがとりうる状態の可能性を拡げることにより、今より極めて高速に情報を処理できるようになるかもしれません。

 ただし、一筋縄ではいきません。コンピュータのビットを量子状態に維持するのは難しいことなのです。人間と同様、現在のビットは量子状態を維持するにはスケールが大きすぎるし、温度も高すぎます。ブッシュ准教授のグループは、量子コンピュータのような技術の開発につながる道筋を見つけるために、スケールが大きすぎず高温すぎないシステムを発見し、それが何であるかを説明することに取り組んでいます。

 また、同グループのメンバーは、自然界において量子レベルで起こっている光合成などの物理的プロセスを理解することにも取り組んでいます。植物が日光を使って二酸化炭素と水から栄養を作っていることは知られていますが、なぜ植物中の緑の色素であるクロロフィルが光受容体として優れているのか明らかではありません。光合成の過程で、クロロフィル分子は1個の光子を吸収して1個の電子を失い、これが植物の栄養である糖の生成と酸素の放出につがなる連鎖反応を引き起こすのです。クロロフィルが光エネルギーを化学エネルギーに変える効率の良さは、量子相互作用の無限に近い可能性によるものと考えてよいのでしょうか。実は最近になって、物理学者はクロロフィル分子の中で起こる量子コヒーレンスを発見しました。2個以上の物質の粒子が波の形をとり、重なり合って一つの大きな波動となる現象で、ブッシュ准教授のユニットでも研究者が取り組んでいる現象系です。研究室でのこうした実験が現実世界に結び付くかどうかは定かではありませんが、希望の持てる第一歩です。

 「私たちが完全には把握できない、または言葉ではうまく説明できない量子現象はたくさんありますが、だからと言ってその利用を諦めるわけにはいきません。」と、ブッシュ准教授は語った上で、「『2001年宇宙の旅』の作者であるアーサー・C・クラークの言葉を借りれば、『可能性の限界を測る唯一の方法は、不可能であるとされることまでやってみること。充分に発達した科学技術は、魔法と見分けがつかない』ものなのです。」と話します。

(ヴァネッサ・シパニ)

広報や取材に関して:media@oist.jp