沖縄が日本の大学国際化の起爆剤に

 本学園理事の有馬朗人博士の御挨拶では、日本の大学の真の国際化を目指す博士の熱意と、その実現のために注がれた、同博士や日本政府、産業界の努力について語られました。有馬博士は、日本に真に国際的な研究大学を実現するためには、外部評価の実施、国際性の高い教授陣、英語による教育研究が不可欠であると力説されました。沖縄科学技術大学院大学の創立は、「世界最高水準」「柔軟性」「国際性」「世界的連携」「産学連携」という5つの理念に基づいており、同博士の期待に応えていると言えます。有馬博士の御挨拶の全文は以下をご参照ください。

 本日、沖縄科学技術大学院大学学園の創立記念式典が開催される運びとなりましたことを心よりお喜び申し上げます。今日まで様々な段階で、様々な貢献をされた多くの方々の御尽力に対し、心から感謝いたします。この大学院大学構想を提案され、その実現の第一歩を踏み出した時より大きく寄与された尾身幸次元大臣、沖縄科学技術研究基盤整備機構の設立に尽力された小池百合子元大臣、そして学園設立への最後のボタンを押して下さった川端達夫大臣を始め、歴代の担当大臣、それを支えて下さった内閣府の皆さん、そして地元沖縄の稲嶺恵一前知事、仲井眞弘多現知事、志喜屋文康恩納村村長を始めとする沖縄県民の皆さん、本当に本当に有難うございました。

 また沖縄科学技術研究基盤整備機構設立以来、大学院大学設立に向けて献身的努力を積み重ねて来られたSydney Brenner博士、Bob Baughman博士を始めとする研究者及び職員の方々に対しても心より感謝を申し上げます。そして新しい大学院大学の学長予定者としてその開学への最後の仕上げに努力され、いよいよ学長として活躍して下さろうとしているJonathan Dorfan博士の情熱に感謝の念を捧げます。

 そして沖縄大学院大学の構想から始め、今日まで実現に向けて議論を重ねて下さったTorsten Wiesel博士、Jerome Friedman博士、Martin Rees博士、Tim Hunt博士、李遠哲博士、利根川進博士、金澤一郎博士、尚弘子博士、黒川清博士にその大変な情熱と御尽力に厚く厚く御礼を申し上げます。(表1)

 私は1980年以来今日まで、日本の大学を何とか真に国際的なものに出来ないかと考え、私なりにささやかな努力を続けて参りました。先ず研究教育環境を良くすること、研究費を増大することに努力いたしました。幸い国会、政府そして産業界等々の御力で、この面では20年前に比べて大いに改善されました。特に1995年の科学技術基本法の制定は日本の大学や研究所の活力を倍増する上で、極めて大きな力となりました。この法の制定に御尽力下さった方々に感謝申し上げます。第2に大学の教育・研究に当る教職員の質の向上に向って、自己点検・自己評価に加え、有識者による外部評価、第三者評価の導入を東京大学を中心に進めてきました。特に外国人を含む外部評価を計画しましたが、東大の内外から大変な抵抗に遭いました。大学の自治(Autonomy)を阻害するということが反対理由でした。しかし1993年1月、遂に東京大学理学部物理学科の外部評価を実行しました。その時の委員に江崎玲於奈博士、Sydney Brenner博士、南部陽一郎博士等々の方々にお願いしましたが、その後Brenner博士、南部博士の御二人がNobel賞をお受けになったことは、実に嬉しいことでした。このように大学への外部評価、第三者評価の導入に苦労しましたが、今日では当然のこととして行われるものに成長したことには驚いております。

 しかし私が遂に東京大学でも他でも出来なかったことがあります。それは国際的大学であることを目指す大学では、外国人教職員をせめて1/3、できれば1/2以上にすることです。そして留学生と日本人の学生に対して国際語、現在では英語で教育や研究ができるようにすることです。このことは、国際的な研究大学にするために、絶対必要なことと信じているのですが、この表が示すように日本の大学では外国人教員の割合はきわめて低いのです。(表2-1)(表2-2)

 2001年4月、小泉内閣が発足し尾身幸次先生が内閣府特命担当大臣として沖縄政策に当られることになりました。その頃或る会合で沖縄で何かやるべきことがないか、教育や研究はどうしたらよいかと、質問をして下さいました。私はただちに外国人が1/2以上、学長も外国人そして使用言語は英語で、一流の研究・教育力を持つ大学院を作って下さいとお願いしました。そのような優れた大学院を作ることによって沖縄の大学と協力し、沖縄の若者が国際的な研究者、教育者に育つ道を開き、大学院の研究成果によって沖縄に新産業を創出する。沖縄の県民に誇りを持っていただける、そのような大学院を創設し、同時に日本の大学の国際化の起爆剤にしたいと考えたのでした。沖縄県民がその長い歴史の中で、特に第二次世界大戦の戦場となったことを始め、多くの苦労をなさってこられたことに対して、何か報いることができないかと考えてのことでした。沖縄大学院の大きな使命の一つは沖縄県民の将来に貢献することであると思います。もう一つの使命は大きな研究成果を上げて日本の、更に世界人類の福祉に貢献することであると思います。

 幸い尾身先生は自ら世界を廻られ多くの先進的研究所を調査し、多くのNobel賞受賞者を始めとする超一流の研究者の意見を取入れ、”the best in the world”を掲げた私の考えを大きく飛躍させて下さいました。こうして2001年6月沖縄新大学院大学構想が提唱され、内閣府に構想検討会が作られました。この構想検討会の第一回は同年8月に行われ、2003年3月第8回で終了するまで討論を続けました。(表3)委員は稲嶺(当時)知事、仲井眞(現)知事、森田(前)琉球大学長たちでありました。(表4)

 2002年には国際顧問会議が発足し、2003年1月3日まで行われ、世界最高水準、国際性、柔軟性、世界連携、産学連携の基本的概念(concept)が決定しました。 (表5) メンバーは表6-1表6-2に示した通りです。多数のノーベル賞受賞者を擁する堂々たる会議でありました。

 2003年4月、大学院大学の予定地を恩納村に決定しました。恩納村からキャンパスの土地の大部分を無償で提供していただくという大変な御支援をいただいております。恩納村の皆様に心より感謝いたします。6月には第1回評議会が行われましたが、これは1回だけで、すぐ次のBoard of Governors会合に発展しました。(表7)2004年7月には第1回Board of Governorsの会合が行われ、大学院大学構想の具体化、及び沖縄科学技術研究基盤機構の在り方などを検討し、内閣府へ進言しました。委員長は黒川博士以下この表の通りです。このBoard of Governorsは2005年7月の第5回まで続きました。

 2005年4月には独立行政法人沖縄科学技術研究基盤整備機構法が制定されました。機構運営委員会が発足し、黒川博士が最初の議長に選ばれました。第4回会合よりヴィーゼル博士と私が共同議長としてお手伝いすることになりました。第1回会合が2006年1月に開かれ、2011年6月の第13回でその役目を終りました(表8)。機構の理事長にはシドニー・ブレナー博士が着任し、ボブ・バックマン博士と共に多くの外国人、日本人の優秀な研究者を集めて下さり、研究が活発に始まりました。PI44人を始め、外国人約80人、日本人約130人の研究者を集めて既にきわめて強力な国際的な研究センターを形成して下さいました(表9)。シドニー・ブレナー博士にもう一度心より御礼を申し上げます。

 2009年7月、沖縄科学技術大学院大学学園法が成立し、9月には内閣総理大臣により学園設立委員が任命されました。第1回の会合は10月に行われ、本年2011年6月に最終回を行いました。

 2010年7月には、J.ドーファン博士を学長予定者に決定しました。2011年3月に設立委員は文部科学大臣に大学設置等認可を申請しました(表10)。10月には文部科学大臣による大学設置等が認可され、今般の設立に到ったわけであります。

 この間のOIST関係の予算の動きは表11が示すとおりであります。国の財政事情がきわめて逼迫している中で、建物、研究費、人件費等々このように順調に伸びてきたことに、国に対し心より感謝いたします。又内閣府の歴代大臣を始め、担当された方々の御尽力に改めて御礼を申し上げます。

 今日ここにこのように真に国際的な沖縄科学技術大学院大学学園が設立されたことは、沖縄にとって、そして日本にとって極めて喜ぶべきことであります。科学技術には国境がありません。人種の別もありません。沖縄大学院大学が琉球大学等研究教育で大いに協力し、沖縄の将来、特に沖縄の若い人々に希望を与え、日本の大学の国際化に対し優れた標本になり、世界の人類のため大きな活躍をして下さることを祈念しつつ私のお話しを終ります。御清聴まことに有難うございました。

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