OISTの研究者、マティン・ミリェガネ博士がOISTへ遺贈寄付を約束

ミリェガネ博士からの寄付金は、STEM分野の女性にとってインクルーシブな環境を醸成するため、発展途上国の博士課程女子学生への支援に使われます。

Matin Miryeganeh on the OIST campus with out-of-focus lab buildings behind her

沖縄科学技術大学院大学(OIST)のスタッフサイエンティストであるマティン・ミリェガネ博士は、自身の遺産の全てをOISTに寄付することを約束する贈与契約を結びました。 

OISTは将来、この寄付金を基に「発展途上国の女性のためのマティン・ミリェガネ奨学基金」を設立し、OIST博士課程への進学などを希望する低所得国の女子学生を支援するために経済支援や旅費助成金などの就学援助を提供する予定です。   

ミリェガネ博士は、こう言います。「生活に困窮している人たちの教育を少しでも支援したいです。そして、私を支援してくれているOISTに対しても、何らかの形で恩返しをしたいです。支援の対象を発展途上国の女性科学者にしたのは、私自身がその一人だからです。」 

Matin Miryeganeh on the OIST campus with pink flowers in the background
自身の全遺産をOISTに寄贈することを約束した OIST統合群集生態学ユニットのスタッフサイエンティスト、マティン・ミリェガネ博士。

ミリェガネ博士は、イランで生まれ育ち、教育を受けました。そのため、発展途上国の多くの少女や若い女性たちが、科学分野のキャリアを志す過程で、途上国特有の障害に直面することを身を持って知っています。 

「私が8歳の時、母ががんと診断されました。その時に、私の子ども時代は終わりました。突然、非常に重い責任と期待を負わされるようになりました。その責任を果たし、期待に応えることは、とても不可能に思えました。父はとても良い人でしたが、母の看病をしなければならなかったので、家のことは私に任されました。でも不思議なことに、2歳年上の兄は、あまり手伝いを任されていませんでした」とミリェガネ博士は振り返ります。 

ミリェガネ博士の母親は、7年間の闘病生活の末にこの世を去りました。しばらくして、博士は母親のベッドに遺書を見つけました。そこには、娘の大学進学を願う母の思いが記されていました。 

「母のいない高校生活の4年間は、人生で最も悲しい年月でした。祖父母や叔母、そして叔父も亡くなりました。父はとても落ち込んでいましたが、助けを求めることを拒みました。私は必要とされた時にいつでも応じられるようにしていなければならなかったので、勉強に集中することがとても困難でした。けれども、母が望んだようにいい大学に行くだけでなく、そこで働きたいと思うようになりました。今でもその思いは持ち続けています。」 

当時のイランでは、国立大学の入学試験は熾烈を極めていました。合格するためには、私立学校に通い、さらに大学進学のための特別授業を受ける必要がありますが、ミリェガネ博士にはそのような贅沢はできませんでした。 

「でも、その時に人生で最初の教訓を学びました。それは、たとえ最高の環境、設備、支援、機会に恵まれなかったとしても、努力によってそれらを補うことができるということです」と、博士は述べています。 

ミリェガネ博士は、成績を上げるために余暇や睡眠時間を削り、料理の時間を省くために夕食もとりませんでした。父親は、娘が勉強している間に家が静まり返ることに耐えられず、二人の間には緊張が高まっていきました。「そのころの名残で、今でも4時間しか寝ません」と博士は話します。 

結果的に、ミリェガネ博士は、テヘラン州の一流大学アルザフラー大学の植物科学科に4年間の奨学金を受けて進学しました。さらにその後、別の有名大学であるタブリーズ大学の植物体系学・生態学の修士課程へも奨学金を受けて進学することができました。 

修士課程修了後、ミリェガネ博士は日本で博士課程に進学するため、文部科学省の奨学金に応募することにしました。 

「出願や試験、面接などに集中するためには、自宅に戻るわけにはいきませんでした。また、論文発表や英語力上達に向けて勉強をするために、安定したインターネット環境も必要でした。けれども、卒業した以上、寮に留まることはできませんでした。また、イランでは独身女性が一人で住居を借りたり、ホテルに滞在したりすることは許されていませんでした。ですから、私は実質的にホームレス状態でした。大学の建物内での宿泊は禁止されていましたが、警備員が同情してくれて、倉庫の中のテーブルで寝かせてくれ、朝になるとこっそり出てくるという生活をしていました。」   

博士は、「大変でしたが、奨学金をもらうためには、そこまでする価値がありました」と振り返ります。

それから日本に移住し、13年が経ちました。ミリェガネ博士は、まず千葉大学で博士号を取得し、京都大学で博士研究員を務めました。そして、2016年にOISTにやってきました。博士は言います。「日本に来てからも、他の人たちに追いつくために、必死で勉強を続けなければなりませんでした。イランで私が受けた教育と、他の学生たちが受けてきた教育のレベルには、信じがたいほどの差がありました。今でも追いつけていません。」 

「日本にはいつも恩義を感じてきました。この国は、私の家族や母国よりも、私が教育を受けることを尊重し、私の可能性を見出してくれたように思います。このような機会を与えてくれた日本に、とても感謝しています」と博士は述べています。 

また博士は、OISTはこれまで働いてきた中で最も多様性に富み、前向きな環境であると述べています。「日本の本土で働いていた時も、とても満足していましたが、OISTに来て、それ以上に満足しています。ここは、成長し、学ぶ機会に満ちた特別な大学です。」 

今回の寄付を行うにあたり、ミリェガネ博士は、地元沖縄の人々の生活を向上させるというビジョンを掲げ、このような国際的で優れた、そして個性的な大学の創設に信念を持って尽力した尾身幸次氏とシドニー・ブレナー博士に敬意を表しました。また、約3年前に突然父親が他界したことを受けて、両親を偲んで基金を設立しました。 

ミリェガネ博士は、次のように締めくくっています。「父も母も、とても優しくて寛大な心の持ち主でした。私もその優しさと寛大さを受け継ぎ、この基金を通して、若い女子学生たちがOISTに来て温かくインクルーシブな環境で科学への愛と情熱を育めるように手助けをしたいと思います。」 

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