シドニー・ブレナー博士の人生を祝福

OISTの創設に欠かせない人物であるシドニー・ブレナー博士を称賛し、敬意を表すための特別な集いが5月26日(日)に行われました。

 シドニー・ブレナー博士は、ある亜熱帯の美しい島に世界レベルの研究所を作るというビジョンを現実のものにしました。


 沖縄科学技術大学院大学(OIST)と沖縄の関係者、そしてスペシャルゲストらが、私たちが今日OISTとして見知っている大学の創設におけるブレナー博士の役割を称えるために集まりました。ブレナー博士は2019年4月5日に亡くなられました。


 追悼式は美しいパッヘルベルのカノンの演奏で幕を開けました。OIST学長兼理事長のピーター・グルース博士は、1980年代にブレナー博士とドイツで初めて会い、その後Pax6という遺伝子の研究において一緒に重要な論文を発表しました。グルース学長は、式辞の中で「OISTが単なるアイデアだった時にプロジェクトに加わったのは非常にシドニーさんらしい行いでした。(中略)シドニーさんはOISTが「世界最高」となりうることを初めから示しました。彼はリソースを確立し、今日のOISTのスタンダードを打ち立てる科学界のイノベーターとパイオニアを惹きつけたのです。」とブレナー博士の人柄や功績を紹介しました。

ピーター・グルースOIST学長兼理事長は、「歴史好きな人がいるのと同じくらい、シドニーさんが成し遂げたことのファンもいます。シドニーさんが亡くなったことで、この世界は20世紀後半で最も素晴らしく、ウィットに富んで努力家の科学者を失いました。」と述べた。

 その後、ブレナー博士がもたらした影響を讃えるために参加した政府関係者の方々を含む方々から追悼の辞が続きました。

 OIST理事であり、当時科学技術担当大臣としてOIST創設構想の原動力となった尾身幸次氏は、2002年にブレナー博士が詠まれた俳句「沖縄で 新大学の 夜明けかな」を紹介し、博士が当初からプロジェクトの成功を確信していたことを示しました。

「科学技術政策担当大臣だった2001年、私はOISTの構想を進展させているなかで、このビジョンを現実にしてくれる人物を探し始めました。何人ものノーベル賞受賞者と話をしました。しかし、ブレナー博士とお会いしたとき、博士は他の誰よりも強く、科学技術の大学院大学をつくるという私のアイデアに反応してくれました。私は彼のエネルギーとビジョンに感銘を受け、やっとOIST創設の長いプロセスを監督してくれる正しい人物に出会えたと思いました。」と述べる尾身幸次氏。

2008年にOISTで講義をするシドニー・ブレナー博士


 内閣府特命担当大臣(沖縄及び北方対策担当)宮腰光寛氏、そして沖縄県知事の玉城デニー氏よりメッセージが寄せられました。
 宮腰大臣のメッセージの中には、「多くの優秀な研究者が、博士の理念に共感し、また、博士の情熱やお人柄を慕い、世界各地から沖縄にやってまいりました。今日のOISTの礎は、まさに博士によって築かれたものであり、創業の時にブレナー博士という傑出した人物を得ることができたことは、OISTのみならず、沖縄そして日本にとって非常に幸福なことであったと考えております。」と日本政府の立場からブレナー博士を偲ばれました。

 玉城知事は、ブレナー博士の沖縄への影響を以下のように綴りました。「ブレナー博士の存在は、沖縄県の科学技術振興にも大きな影響を与えており、遺伝子研究設備の充実や研究人材の高度化など、今日の沖縄のバイオサイエンス研究基盤の確立は、当時、ブレナー博士が蒔いた種が着実に成果を上げつつあることの証左であります。」

 親しい同僚であり、54年来の友人でもある、ノーベル賞受賞者のティム・ハント博士は友人としてジョークの好きだったブレナー博士の一面について紹介しながら、博士の若い頃から晩年までの詳しい科学的偉業や研究への熱意を紹介しました。

 OIST技術開発イノベーション担当首席副学長、ロバート・バックマン博士は、OIST創設の初期段階をブレナー博士とともに過ごしました。
 

ブレナー博士の長年の同僚・友人であったティム・ハント博士は、「シドニーさんは非常に真面目な科学者でした。真面目に素晴らしく、優れたことを言い、生物学者として彼の世代の巨人の一人でした」と語った。

ロバート・バックマン博士は、ブレナー博士のビジネス面における才能も紹介しました。「シドニーさんは、あまり知られていないキャリアも持っていました。彼は、成功した技術移転起業家なのです。400以上の特許を持ち(中略)いくつかのバイオテクノロジー企業をも設立しています。」

 その後、OIST分子遺伝学ユニットを率いるダニエル・ロクサー教授とOIST理事会議長であるチェリー・マレイ博士によるスピーチがありました。
 

ダニエル・ロクサー教授は、OISTをインスパイアし続けているブレナー博士の科学を紹介しました。OISTでは、沖縄にとって重要なサンゴやモズク、海ぶどうなどを含む多くの生物のゲノム解読を行っています。 「シドニーさんは、晩年、2053年、すなわちDNAの二重らせん発見100周年にまた戻ってきて、科学がどれくらい進んだか見たい。と繰り返し言っていました。ですから、我々の使命は明らかです。彼が私たちに教えてくれたように科学を追求し、博士が戻ってきたときに、博士が喜んでくれるような発見をすることです。」

OIST理事会議長のチェリー・マレイ博士は、OIST創設におけるブレナー博士の重要な役割に焦点を当てるとともに、博士の自伝から言葉を紹介しました。「科学者は受賞歴や才能などによってではなく、その人が育てた人材の質で評価されるべきである。」そしてこう付け加えました。「そうであるならば、博士のレガシーは、OISTを作り、未来の学生を生み出したことでずっと生き続けるでしょう。」

 追悼式は、この日皆が集まっていたセミナールームを、「シドニー・ブレナー・レクチャーシアター(仮名)」と命名することで幕を閉じました。これは、ブレナー博士によるOISTにおける革新と教育への貢献を記念するものです。
 


セミナールームB250がシドニー・ブレナー博士の名を冠することとなりました。
 

 OIST及び沖縄にとってのみでなく、世界にとって重要な人物の生前の功績を讃えるために、名前がついたばかりのシドニー・ブレナー・レクチャーシアターが美しい音楽で満たされました。

 ブレナー博士は、2002年にノーベル生理学・医学賞を受賞。米カリフォルニアにおいて分子科学研究所の設立に貢献、英ケンブリッジにおいて分子生物学研究所の医学研究評議会の理事を務めるなど、数々の功績を残しました。OISTの前身である沖縄科学技術研究基盤整備機構の機構長を2005年から2011年まで務め、強力なリーダーシップでOIST設立への道筋を作りました。

広報・取材に関するお問い合わせ:media@oist.jp

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